テレジアンタールの歴史
テレジアンタールは1836年にドイツ南部、バイエルンの深い森の中で、実業家フランツ・シュタイガーバルトによって創立されました。その庇護にあたった、バイエルン国王ルードヴィッヒⅠ世の妃、テレジアの名前に由来するその社名からも、テレジアンタールの製品が、王侯貴族の間で何代にもわたり愛されてきた理由を知ることができます。シンボルマークの王冠が示すごとく、テレジアンタールは、特別な時と人のためのものでした。白鳥城(ノイシュヴァンシュタイン城)を作らせたルードヴィッヒⅡ世、ロシア皇帝、フランス最後の皇后ユージェニーなど、ヨーロッパの宮廷でもてはやされ、1840年代には貴族や裕福な市民の間で使われるようになりました。
ヨーロッパ最高の技術と品質により、1867年のパリ万博でブロンズメダルに、1937年にはゴールドメダルにも輝いています。
歴史上有名な顧客
テレジアンタールを支えた顧客たち
テレジアンタールは、ヨーロッパの宮廷や貴族、裕福な市民に愛されてきましたが、有名な顧客には、次のような人たちがいます。 ルードヴィッヒ2世は、リンダーホフ城にガラスサービスを備え、ロシア皇帝は、極上のグラスをオーダーし、フランス最後の皇帝皇后であったユジェニーは、亡命したイギリスで、文字盤、歯車、針の全てガラス製の貴重な時計を手に入れました。
バイエルン国王ルードヴィッヒ1世(1786-1868)
テレジアンタール設立を支持、ガラス製作に関する独占権を与えました。ミュンヘンのニュンフェンブルク宮殿には、彼の愛した美女36人の肖像画が飾ってあるほど、好色家。また、毎年9月にドイツ ミュンヘンで開かれる世界最大のビール祭りオクトーバーフェスト(約2週間で毎年600万人以上が訪れる)は、王妃テレーゼとの結婚式でビールを振舞ったのが始まりと言われています。
バイエルン国王ルードヴィッヒ2世(1845-1886)
ルードヴィッヒ1世の孫。中世の憧れを具現化したノイシュヴァンシュタイン城(白鳥城)、ヴェルサイユ宮殿を模したヘレンキムゼー城、トリアノン宮殿を模したリンダーホフ城などを建設し、豪華な建築物の建設に力をそそぎましたが、その建設費用や、1866年の普墺戦争敗戦に際してのプロイセン側への多額の賠償金などに苦しめられました。美しい青年を愛した同性愛者としても有名で、晩年は精神に支障をきたし、シュタンベルク湖畔で水死。
ロシア帝国皇帝ニコライ2世(1868-1918)
ロシア帝国最後の皇帝。日露戦争時の皇帝。皇后アレクサンドラ・フョードロヴナと共に、テレジアンタールを愛し、ドイツの手工業を奨励。皇太子の病状を好転させ、政治に口を挟むようになった祈祷僧ラスプーチンと共に、第一次世界大戦の大敗の責任を民衆に問われ、ロシア革命で銃殺。
フランス最後の皇后ユージェニー(ウジェニー)(1826-1920)
ナポレオン3世(ナポレオン・ボナパルトの甥)の王妃。スペイン貴族の出身。1867年に夫ナポレオン3世によって開かれたパリ万博でテレジアンタールは銅メダルを獲得。
ガラス工の工場
テレジアンタールの工場は、1836年まで遡ります。バイエルン王のルートヴィヒ1世が、チェコの高級ガラスの営業マンであるFranz Steigerwaldに「Royally Privileged Crystal-Works Theresienthal」を設立するよう任命しました。テレジアンタールの名前は、王家の遺産を表しています。ルートヴィヒ1世の妃である王妃を称えているのです。工場の初期より、王族と貴族が、高級なガラス製品のデザインと素晴らしい品質を称賛してきました。
19世紀末に米国の高級百貨店で勝ち取った、洗練された人々からの需要によって、テレジアンタールの道が開けました。つまり、テレジアンタールの製品は、芸術家によってデザインされ、社内でも最も才能にあふれた職人が作った卓越した作品であると言うことです。テレジアンタールは、自社の原点に最大限の努力を捧げています。職人たちは、このガラス業界の中でも最も技術に秀でて、訓練を受けています。最も手腕が問われるような技術を駆使しながら、最も優雅なガラス製品を作り続けています。それ故に、洗練されたお客様たちから賞賛を得ているのです。すべての製造過程はもっぱら手作業で行われ、テレジアンタールの現場で一人の職人によって制作されています。それ故、高度で一貫した品質を保証し、適切な生産納期と高レベルの柔軟性を提供できるのです。これは、オーダーメードのガラス製品のコレクションを作る際に大変重要なことなのです。
遺産
テレジアンタールは、バイエルンの王とチェコの実業家によって創立されました。彼らは、バイエルンのガラス製造の品質を向上させたいと願っていました。ボヘミアとフランスの一流ガラスメーカーの水準にある技術と専門知識を近隣のボヘミアから導入し、高品質なクリスタル製品を製造する伝統を確立してきました。すぐにテレジアンタールのきめ細かさと、心遣いは成功を収めるようになりました。
1840年の初めになると、テレジアンタールの製品は、ドイツ国内外の高級百貨店で手に入るようになりました。ヨーロッパの貴族と裕福な都市の人たちは、エレガントで非の打ち所が無く作られたクリスタル製品一式を購入していました。19世紀末頃、テレジアンタールはさらに遠くの国へ、自社のコレクションを輸出し始めました(特に米国において)。米国は、現在も主要なマーケットの一つです。最初の製造の日から、もっぱら富裕層向けのマーケットにのみ焦点を合わせ、200年以上にも及ぶ豊かな経験から大いに恩恵を受けています。この目覚しい伝統がテレジアンタールに信頼性を与え、同時に高品質のクリスタル製品を作り続けるよう鼓舞しています。
年表
薪とガラスの原料となる酸化カリウムを作るための木材が多くあったバイエルン地方では、木材を求めてガラス工たちが移動しながら、活動をしていましたが、19世紀初頭の産業革命によって、運搬技術が発達すると、ガラス工場は定着するようになりました。
1836年 |
テレジアンタールは、フランツ&ヴィルヘルム・シュタイガーバルトによって、Royally Bavarian Privilleged Glassworksとして設立 |
1837年 |
テレジアンタールの工場は、バイエルンで最初の公社となる |
1843年 |
テレジアンタール社は倒産し、経営陣が解雇、その後バイエルン国立銀行が工場を買収 |
1861年 |
ミヒャエル・フォン・ポッシンガーが、テレジアンタールの所有者となり、工場の迅速な回復を成し遂げる |
1863年 |
ミヒャエル・フォン・ポッシンガー・ジュニアは、ヴィルヘルム・シュタイガーバルトとの娘、
へンリエッテと結婚 |
1870年-1900年 |
ドイツ歴史主義の時代、
へンリエッテは芸術感覚あふれたデザインを多数開発 |
1869年-1886年 |
ルードヴィヒⅡ世が、有名な白鳥城(ノイシュヴァンシュタイン城)を建設し、テレジアンタールに多数のガラス製品を注文 |
1900年以降 |
アール・ヌーヴォーの時代、有名な芸術家が、テレジアンタールとコラボレート(ハンス・クリスチャンセン等) |
1912年 |
ハンス&エゴン・フォン・ポッシンガー兄弟が、父の死後、工場を引き継ぐ |
1917年 |
米国が第一次世界大戦の参戦に踏み切った際、エゴン・フォン・ポッシンガーは米国にて、事業を打ち立てる |
1920年-1933年 |
第一次世界大戦後と世界恐慌の間、米国とのビジネスがテレジアンタールの経営を安定 |
1933年-1939年 |
ドイツの政策変更により、米国への輸出が衰退 |
1939年-1945年 |
数多くの優秀な職人が戦死、製造は最小限に |
1948年 |
テレジアンタールは西ドイツの急速な経済復興により回復 |
1949年 |
ハンス・フォン・ポッシンガーが、コンコルド・シリーズをデザイン。コンコルドは元々米国市場向けに作られたが、ドイツで大成功を収める。 |
1951年 |
ハンス・フォン・ポッシンガーの死後、彼の兄弟であるエゴンが、テレジアンタールのオーナーに。 |
1973年 |
エゴン・フォン・ポッシンガーは、テレジアンタールを、ガラス職業学校の校長マックス・ガングコフナーとフュッチェンロイターに売却 |
1982年 |
フュッチェンロイターは、テレジアンタールを完全に買収し、技術革新と強化に巨大な資金を投資 1996年まで フュッチェンロイターはテレジアンタールを、高級ガラスの分野における技術主導型のメーカーとして位置づける事に成功 |
1996年-2000年 |
経済危機によりテレジアンタールの売却。2000年まで、テレジアンタールの工場は一時的に消滅 |
2004年 |
BMW財団であるエバーハルト・フォン・キュンハイム財団と数多くの支援者により、工場は操業を再開 |
2005年 |
ハンブルグのクバル&ケンペが新作を企画、プレスに紹介 |
2006年 |
バイエルンの一族がテレジアンタールを買収 |